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福岡高等裁判所 昭和41年(ネ)901号 判決

控訴人 高森町

被控訴人 森野政雄

参加人 国

訴訟代理人 布村重成 八波洋 ほか一名

主文

原判決を取消す。

別紙境界図〈省略〉表示の7点から、順次8点乃至60点、界61点、連1点乃至連3点、界4点乃至界18点、107点乃至129点を経て、130点に至り、同点から7点に復する各点を、順次直線で連結した線内に囲まれる範囲内の土地が控訴人の所有であることを確認する。

訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

事実

控訴代理入らは主文同旨(主文第二項は当審における請求の拡張を含む)の判決を求め、被控訴代理人は「本件控訴を棄却する。控訴費用は控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

当事者双方の事実上の主張および証拠関係は次の第一、第二、第四に附加するほかは、原判決事実摘示と同一であるから、これを引用し、当審における補助参加人の主張は第三のとおりである。

第一控訴人の当審における請求の拡張

一  控訴人所有の熊本県阿蘇郡高森町大字津留字大谷二七八三番、同二七八四番(当審拡張部分、以下単に拡張部分という)は控訴人が従来所有権を主張する原野六筆と共に補助参加人との間で官行造林契約およびその目的のための地上権設定契約が締結され、補助参加人によつて造林がなされているところ、被控訴人は拡張部分についても同人所有に属するとして控訴人の所有権を争うので、控訴人は本訴請求を拡張するが、その拡張部分を含む控訴人主張の所有土地の範囲は請求の趣旨のとおり別紙境界図表示のとおり(本件係争地)であるから、その範囲の所有権確認を求める。

二  本件拡張部分および従前主張の土地の一筆である前記高森町大字津留字大谷二七八二番の土地はもと訴外亡工藤一蔵の所有であつた。補助参加人が本件係争地に公有林野官行造林を設定する際、右三筆の土地は右官行造林管理には欠くことのできない場所にある(防火線の設置等について、右三筆の土地を欠いては管理が十分行えない。)から、これを官行造林地に組入れる必要が生じ旧野尻村は工藤と交渉し、次の方法により大正一三年九月四日、二七八二番の、同一四年一二月二八日、二七八三番および二七八四番の各土地の所有権を取得して、これを官行造林地に組入れた。

即ち、亡工藤は大谷川の東岸(大谷字側)に設置してある井ぜきの水路を自ら作つたが、大谷川の崖地は井ぜきの管理上、必要な土地であるため、二七八二番の土地を野尻村に譲渡する交換として右崖地の取得を希望した。そこで野尻村も右崖地が植林には全く不適なため大谷川沿いの土地を崖に面する土地と斜面地とに分筆して崖地を二七七五番の二、二七七六番の二、二七七七番の二、二七七八番の三、二七八〇番の二、二七八一番の二として前記二七八二番と交換した。

二七八三番、二七八四番については旧野尻村が佐藤武らから寄附を受けた下戻原野のうち、熊本県阿蘇郡高森町大字津留字産ノ谷二五二一番(原野七反一五歩)、同字池ノ久保二四七三番(原野二反歩)と交換して野尻村の所有とした。

第二控訴人の補充主張

一  本件係争地の沿革とその利用状況

1  控訴人主張の従前の土地五筆とほかに百数十筆の土地はもと国有地であつたが、明治三八年四月一二日旧野尻村大字津留部落(名義上は佐藤武ら百数十名)に国有土地森林原野下戻法(明治三二年四月、法律第九九号)により下戻され、明治四一年七月二二日右部落に引渡されたものである。国有地にあつた当時の右各土地は訴外甲斐縫太郎外一名の名義をもつて部落民に貸与され、部落民は拝借料を支払つて利用していた。津留部落に下戻しされた後は下戻しの趣旨により部落民が牛馬飼料の上草刈り等をしていたが、佐藤武らは右下戻しを受けた土地(本件係争地内の土地を含む百数十筆の土地)の公平な管理をするため大正二年三月「下戻原野並に其他共有地整理委員会」(以下単に「管理委員会」という。)を組織し、整理委員会は放牧牛馬等の頭数の把握をすると共に大正三年頃から六年間、本件係争地を訴外亡橋本平次郎に賃貸し、上草をとらせていたものである。

補助参加人は公有林野官行造林法(大正九年七月法律第九号)の趣旨にのつとり大正一一年頃、本件係争地を含む土地を官行造林予定地としたが、そのためには右土地が公有林野でなければならないことから、旧野尻村は佐藤武らに依頼し、下戻原野全部の所有権を寄附等により取得し、補助参加人との間に前記公有林官行造林契約を締結したものである。

2  整理委員会が下戻原野の一部を訴外橋本に賃貸していた契約書には「大谷大分県界二筆」との記載があつたが、「大谷」とは字大谷を示すものであり、「大分県界」とは字大谷が大分県との県境を示すことが明らかであるから、それは大分県との県境に接する土地を意味し、二七七五番の一および二、二七七六番の一および二がこれに該当するので、整理委員会が本件係争地を占有したことは明白であるといわねばならない。

大谷川の右岸の崖地での秣刈りなどその地形状況からみても不可能であり、佐藤らは二七七五番、二七七六番、二七七七番の一、二七七八番の一(いずれも分筆前である)の秣を売却しているが、それは本件係争地のものであることが明らかである。

3  もと工藤所有であつた二七八三番の土地は地目畑で、これを訴外佐藤静馬が工藤から借りて大正一二年頃まで耕作していた。右土地は前記のとおり二七八二番、二七八四番と共に他の土地と交換されて官行造林地に組入れられたが、これらの土地の形状は字図と現況が極めて類似し、本件係争地の南側にあつて右三筆が丁度東側に出張つた形となり、そのほぼ中心部に畑の跡があるから、右三筆が本件係争地の南側の出張りに位置することも明白である。

4  大谷川の左岸(対岸)は崖地部分でも字境から字境までを一筆の土地として地番がつけられている。崖地部分がいかに傾斜角度がゆるやかで独立の経済価値があるとしても平地に比すれば比較にならず、且つ尾根や谷で他の土地と区別すべき目印もないので大まかに字境から字境までを一筆としたにすぎない。それに対し右岸は傾斜角度も大で経済的価値も全くない断崖で、他の土地と区別すべき境界としての目印もないのでその崖地部分が控訴人の所有土地として独立の番地を有すると考えるのは不当であつて、国有地時代から控訴人所有土地は経済的価値ある土地として管理されて来たので、それは本件係争地に当るとみるのが相当である。

5  以上のとおり、控訴人所有の土地は国有時代から甲斐縫太郎外一名という表示のもとに多数人に秣刈りのため賃貸し、その後も整理委員会が管理していたのでその利用目的からみてもその土地が前記崖の部分であるとは到底考えられず、むしろ、控訴人所有土地は右係争地に含まれるとみるのが相当である。

二  被控訴人所有土地および周辺の占有状況

1  本件係争地南の出張り部の南側には二七八五番、二七六五番、二七九四番の一乃至三が実在している。その出張りが被控訴人の主張するとおり控訴人所有の二七八二番、二七八三番、二七八四番でなく、被控訴人所有の二七七九番、二七八一番の一であるとすれば控訴人所有の前記二七八二番、二七八三番、二七八四番など、その位置する場所が全くなくなる結果となつて現況と著しく相違することになる。出張りの中心部にある二七八三番は前記のとおり字図上の位置とも符合するので、右出張り部は二七八二番、二七八三番、二七八四番というべきである。

2  二七七五番の一は大分県と熊本県の県境にあり、本件係争地の北側になり、堀宗馬が大塚繁義に譲渡し、現在大塚悦男が支配している。しかしその附近に堀睦男の所有地はないので同人が支配する係争地東斜面の土地は二七五五番の一に当らない。

3  二七七九番の字図上の位置と現実の位置とが異なり、字図上右土地は水路として表示してある線の北側にあるが、現地の状況からみればその南側にあるというべく、しかも右水路の表示は字図上の誤りである。その部分には水路はなく、字大谷から大谷川を渡つて対岸に通ずる道路があり、谷側には石垣の跡も残つている位であるから、被控訴人主張の土地の位置は現況において大きく食い違うことになる。

4  二七七二番の一、二、三、および二七七三番の一はいずれも係争地東側の斜面に当る。甲斐忠義は昭和初年頃右土地所有者古沢喜三郎が吉良歳之にこれを売却する際仲介したが、その位置は右斜面にあると明示している。古沢喜三郎は二七七三番の一をも所有し、昭和二年八月二六日吉良歳之にこれを売却したがその所有時代に前記斜面に右土地が存在するとして開田作業を営み石垣を築きその跡が右斜面に残つているのでその所在位置からみれば控訴人主張の土地配置と符合する。

5  熊谷貴は二七六五番として本件係争地出張り部の北側を占有するが、右土地は昭和二三年一二月二日自作農創設特別措置法によつて佐田今朝弘に売渡され、更に佐田一成に贈与されて同人が右出張り部の南側を同地として占有するので、熊谷の占有する土地は全く別の土地であつて、諸般の状況からみるとそれは二七八一番の一に該当するといわねばならない。

三  被控訴人所有土地の移転状況

被控訴人がその所有土地を取得した経緯はその主張のとおりであるが、同人が右土地を取得した頃は本件係争地内の立木は既に三十数年生の立派な樹木に生育し、所轄官行造林として補助参加人および控訴人の占有管理下にあつた。

ところで被控訴人は本件係争地が同人の取得した七筆の土地に含まれると主張する。しかし本件係争地が官行造林地であることは明白であるから、前記七筆の売主および買主たる被控訴人はその売買の際、立木および土地の前記占有状況を熟知のうえ取引したものというべきである。売主たる所有者も右係争地につき真に所有権を有するのであればそれを主張して権利保全を図るべきに何らかかる措置もとらず、買主の被控訴人も右土地を取得すれば、補助参加人および控訴人との間にその権利をめぐる紛争が生ずることは自明のことであるから、通常の場合であればその買受けを躊躇するのが当然であるにも拘らず、被控訴人は一儲けを企んで右土地を取得した。そして同人が支払つた代金は僅少の額で名目的なものにすぎず、本件係争地を取戻した時、更に代金の追加支払をするなどの約定をしている実情からみると被控訴人の右土地の買受けは通常の山林売買とはいえず、取引の常規を完全に逸脱しているものというべきである。

四  取得時効について

前記のとおり被控訴人は本件係争地が三〇年以上に亘り補助参加人および控訴人によつて占有管理され、その立木も右管理育成されたことを熟知しながらこれを買取つたが、当時立木は時価二、〇〇〇万円を超す価値を有するのに所謂争い山であることを理由に右係争地を極めて低額で買入れ、巨利を得ようとしたのであるから、同人の右土地の取得行為は反倫理的行為であり、同人は背信的悪意者というべきであるから、本件係争地が被控訴人の土地であるとしても控訴人は被控訴人に対し時効による取得を対抗しうるというべきである。

第三当審における補助参加人の主張

一  本件係争地の沿革およびその利用状況、被控訴人所有土地の移転状況は控訴人の主張するとおりである。

補助参加人は旧野尻村との間に公有林野官行造林契約を締結するに当り現地において、その造林地の範囲を明確に特定する必要から、熊本公有林野官行造林署(現在の熊本営林署)高森担当区に勤務していた岩村鹿子生をして、大正一二年一一月から同一三年二月頃にかけて現地を測量させた。その際、整理委員会、旧野尻村、隣接地所有者等の利害関係人に立会いを求め、その指示のもとに測量して、隣地との境界を明確にした。しかし、利害関係人から境界等につき何らの苦情もなく、同人らはむしろ明確に旧野尻村所有地との境界を指示した位であるから、当時本件係争地が旧野尻村の所有に属することは何人もこれを疑わなかつたことが明らかである。

二  本件係争地と字図との対比

1  本件係争地が被控訴人主張の土地だとし、その北端部県境に接する部分を二七七七番だとすると字図上係争地の北側に隣接する二七七五番の一(二七七六番の一についても同じ)は字図上明らかに所在しながら現地では存在しないことになる。

2  右係争地南部出張り部が被控訴人のいう二七七九番、二七八一番の一であるとすれば、字図上右土地と二七八七番の一、二七八五番、二七八六番との間に二七八二番乃至二七八四番が存在すべき筈なのに係争地の南側は二七八七番の一、二七八五番、二七六五番として現地が存在するので二七八二番乃至二七八四番の所在場所がないことになる。

3  字図上被控訴人所有の二七八一番の一は右所有の二七七九番と二七六九番の一、同番の二の各土地に隣接しているのに被控訴人の主張するとおりとすれば右二七八一番の一は二七六九番の一、同番の二に隣接するどころか、右土地の南西はるか大谷川の方に所在することになる。

4  字図の地積範囲は必ずしも正確とはいえないが、隣接地番との関係は著しく相違するものではない。控訴人所有土地(但し二七八二番ないし二七八四番の土地を除く)が官有原野であつた明治一八年頃作成された「官有原野見取絵図」には右土地が表示されていて、本件係争地の地形は字図の控訴人所有土地と一致する。そこで明治一八年当時、右国有地の所在範囲は明確に特定されていたと考えられるところ、被控訴人の前記主張が正当と仮定すれば、右国有地の地形は右見取絵図と著しく相違したものにならざるを得ないので、これからみても被控訴人の主張が理由のないことも明らかである。

三  取得時効について

取得時効についての補助参加人の主張も控訴人のそれと同一である。

ところで、本件係争地が被控訴人所有土地に該当し右土地につき控訴人が時効によつて所有権を取得したとした場合、控訴人は時効による所有権取得登記手続を経由せず却つて右時効完成後に被控訴人が所有権取得登記手続を了しているので、一見したところ、控訴人は被控訴人に対し、時効による所有権取得を対抗できないかのごとくである。しかし被控訴人は以下に述べるとおり、所謂背信的悪意者であり、登記の欠缺を主張しうべき第三者には該当しないので、控訴人は被控訴人に対し右所有権を主張しうるものである。

1  被控訴人は本件係争地にあたると主張する同人所有土地を次のような経緯で取得し、その移転登記手続を経ている。

(一) 二七七二番の一

吉良歳之(大正一三年一二月九月売買により取得、同日登記)→被控訴人(昭和三七年七月二六日売買、同日登記)

(二) 二七七二番の二

吉良歳之(昭和二年八月二六日売買、同日登記)→被控訴人(昭和三七年七月二六日売買、同日登記)

(三) 二七七二番の三 (二)の土地と同じ

(四) 二七七七番

一宮積(昭和三四年一月三〇日保存登記、但し一宮伊八郎から相続によつて所有権取得)→松岡孝一郎(昭和三四年七月一日売買、同月七日登記)→江藤辰己、荒木末人、坂口実義、田山三良(昭和三六年九月二一日売買、同月二九日登記)→被控訴人(昭和三七年四月一〇日売買、昭和三九年二月七日登記)

(五) 二七七八番

坂田新太郎(明治二〇年四月二六日売買、同日登記)→坂田淳子(相続、昭和三四年七月一六日登記)→松岡孝一郎(昭和三四年七月七日売買、同月一六日登記)→以下四に同じ

(六) 二七七九番

熊谷小一郎(明治二七年九月一〇日売買、同日登記)→熊谷次雄(相続、昭和三七年四月一四日登記)→葉山明、奥村生雄、荒木末人、糸田繁、被控訴人(昭和三七年三月二〇日売買、同年四月一六日登記)→中村ユリ子(葉山明持分のみについて昭和三七年七月二五日売買、同年八月一日登記)→西田明(糸田繁持分のみについて昭和三九年一月一〇日売買、同月一七日登記)→被控訴人(中村ユリ子持分のみについて昭和三九年五月二一日売買、同日登記、奥村生雄、荒木末人、西田明持分のみについて昭和四一年一〇月二〇日売買、同月二五日登記)

(七) 二七八一番の一

熊谷次雄(昭和三七年四月一四日保存登記、ただし明治二八年七月一一日熊谷小一郎が取得し、相続によつて熊谷次雄が取得)→以下(六)に同じ

2  右(一)(二)(三)の土地について時効完成後の第三者に該当するとみられるのは被控訴人である。

被控訴人は右土地を一宮積の世話により吉良歳之から買受けているが、当時本件係争地には樹令三〇年以上の杉、檜が立派に生育し、それが官行造林地内にあり、土地と共に控訴人および補助参加人が占有管理していることは明白であつたから、通常であればこれを取引の対象とすることは避ける筈である。しかるに被控訴人は日頃から紛争に介入しては一儲けを企むことを行い、本件についても売買名下に所有権移転登記をしたのは被控訴人が官行造林にかかる本件係争地上の立木を横取りして不当に利益を得ようと企図してなしたものであることが明白である。しかも控訴人の右係争地についての時効取得が問題となつたときは登記名義を移転して控訴人が時効取得を被控訴人に対抗できなくなるということを十分に知悉したうえで、前記所有権移転登記を受けたものであるからかかる被控訴人の行為は許されない。

3  右(四)の土地について時効完成後の第三者に該当するとみられるのは第一次買受人松岡孝一郎、第二次買受人江藤辰己、荒木末人、坂口実義、田山三良、第三次買受人被控訴人である。

第一次買受人から第二次、第三次買受人への所有権移転登記手続は、同人らが一儲けを企み、一宮に代つて訴訟を代行するためにしたもので真実所有権を移転する意思のないものであるから、第一、第二次買受人は一宮と取引関係に立つ第三 でなく、一宮と同一視すべき立場のものであり控訴人との関係においては時効取得の当事者の地位に立つ者であるから控訴人の登記の欠缺を主張しうべき第三者ではない。

仮に右第一、第二次買受人が形式上第三者に該当するとしても、同人らは事件屋であり、本件係争地が控訴人、補助参加人の官行造林地であることを知悉しながら、右山林立木の乗取りを策した者であるから背信的悪意者に該当し、控訴人の登記の欠缺を主張しうべき第三者に当らない。

被控訴人は本件訴訟中に江藤外三名の持分の移転登記を受けたが松岡、江藤らと同じ目的で右登記手続を受けたもので同人らと同じ立場にあり、取引関係に立つ第三者ではなく、前記2に述べるとおり背信的悪意者であるから控訴人の登記の欠缺を主張しうべき第三者に該当しない。

4  (五)の土地について(四)と同一の主張をなす。

前所有者坂田淳子から第一、第二次買受人、更に被控訴人へと所有権移転登記手続がなされていることおよびその実情は前記3と同一である。

5  (六)(七)の土地について時効完成後の第三者に該当するとみられるのは第一次買受人葉山明、奥村生雄、荒木末人、糸田繁、被控訴人、第二次持分買受人中村ユリ子、第二次持分買受人西田明、他の持分全部買受人である被控訴人である。

ところが、荒木末人は前記(四)(五)の土地について江藤らと共有名義人となつているので江藤のグループに属する事件屋の一人であるから、同人と被控訴人両名が共有名義人として名を連ねていることは、その余の葉山明、奥村生雄、糸田繁、中村ユリ子、西田明も被控訴人らの一儲けの計画に加担したか、荒木、被控訴人らに協力して名義を貸したものであることは容易に推察される。そこで同人らは被控訴人と共に背信的悪意者として控訴人の登記の欠缺を主張しうべき第三者に該当しない。

第四被控訴人の反論

一  控訴人所有の原野につき控訴人と補助参加人との間に官行造林契約が締結され、その主張の時期に地上権設定登記手続がされ本件係争地が控訴人所有土地に該当するとして官行造林がなされ、以来補助参加人がその植林の管理をして来たことは認める。しかし、それは控訴人と補助参加人が被控訴人所有原野を村有地と誤認若しくは強弁し、当時の所有者の度重なる抗議にもかかわらず、勝手に官行造林をしたものである。そこで補助参加人が右係争地に権限なくして植林した立木は被控訴人の原野所有権に帰属するものである。

二  控訴人は本件係争地はその主張のとおりの沿革により控訴人所有に帰属したというが、かかる沿革があるからといつて、それだけで控訴人の所有を認める根拠となるものではない。

本件係争地は行政区画上は津留部落に属していたが、その部落民は本件係争地において全く入会うこともなく、唯大分県側の住民が秣刈りにくるだけであつたから控訴人主張の沿革の事実も直ちに肯認できない。

三  本件係争地において官行造林が開始された頃、一宮積、熊谷孫市、熊谷次雄らは自己の所有地が侵害されたとして抗議し、旧野尻村にも陳情し、高森簡易裁判所に対しても調停申立をするなどして自己の所有権を主張して来たが、控訴人および補助参加人はこれらの事実を全く無視している。

四  控訴人は本件係争地南の出張りが被控訴人所有地であるなら控訴人所有の二七八二番、二七八三番、二七八四番など全く存在しないことになるというが、その南に位置する佐田一成所有の二七八六番と右出張り部との間には広大な土地があるので、その部分こそが控訴人の右主張の土地に該当するものである。右出張り部分が控訴人の主張の土地であるとすれば却つて被控訴人所有の土地が存在しえなくなる。

五  控訴人および補助参加人の取得時効についての当審における主張は争う。

前記第三の三、1、(一)、(二)、(三)の各土地は昭和三七年七月二六日訴外吉良歳之から金一八〇万円で、右(四)、(五)の各土地は同年四月一〇日訴外荒木末人、江藤辰己から金一四〇万円、同坂口実義、田山三良から金一八〇万円、(六)(七)の各土地は同熊谷次雄および各共有者から合計金二六五万円で買入れたものである。

その際、被控訴人は官行造林がされていることは知つていたが、売主から所有地が右係争地内にあることを聞くは勿論、丹念に実地調査を行い、登記簿や字図を調査し、元所有者や土地の古老に事実経過を確認し、控訴人および補助参加人の植林が不法なものであり、本件係争地は登記名義人たる売主の所有に属し、その立木も土地所有権に帰属するとの確信を得て買受けたものである。

被控訴人への前記所有権移転登記手続は、控訴人の時効取得の主張をはばむためにしたものではなく、被控訴人は買受けの際、控訴人からかかる主張がなされたことなど夢にも思わず、前記金員を支払つて正当に買入れたものである。まして被控訴人は紛争に介入して一儲けを企み、係争地上の立木を不当に利得するため買入れたものではないから控訴人の主張する背信的悪意者ではない。

第五証拠関係〈省略〉

理由

一  控訴人がその主張の八筆の地目原野および畑(但し当審における請求拡張の部分に該当する熊本県阿蘇郡高森町大字津留字大谷二七八三番、地目畑、四反四畝二八歩と同所二七八四番、地目原野、一反五畝歩を含む)の所有者であること、被控訴人がその主張の七筆の原野をその主張の経緯により取得し、その所有者であることは当事者間に争いがない。

二  被控訴人所有の前記大谷二七七七番(地目原野、二反歩)と同所二七八一番の一(地目原野一反八畝歩)は公簿上誤つて記載されたもので、右は現地の存在しない地番である趣旨の控訴人の主張が理由のないこと、および本件係争地附近の状況については次に附加するほかは原判決七枚目裏三行目から九枚目表七行目までに判示するところと同一であるから、これをここに引用する。

1  原判決八枚目裏六行目の「検証(一、二回)」の次に「当審における検証(一乃至四回)および成立に争いのない丙第一号証」を附加する。

2  原判決九枚目表七行目の次に「当審における請求の拡張により造林地南部も係争地に含まれることになつたが、それは係争地の南部に位置し従前の係争地である原野に接続してその一部と共に東部に大きく張り出した形状をしてその部分は以北の造林地と共に樹林をなしている。」を附加する。

三  本件係争地の前記地形を基礎に字大谷の字図〈証拠省略〉を検討すると、右係争地の西方の大谷川が同図上の南から北にかけての字境にある水路にあたり、右現場東方の谷同図の東側字境の水路の下流の一部およびこれから更に西南に分岐した水路を経て二七六八番畑に至るものであることはその東南に分岐した支流の谷あいに明けたと目される二七六七番、二七六二番、二七六三番、二七五九番、二七五八番、二七五五番、二七五三番と表示された一連の畑の字図上の位置と符合することからこれを肯認しうるものである。

以上のとおり本件係争地附近は地形上東緩斜面、西緩斜面、西急斜面の三列に分類することができて、地番の設定もこれに応じて三列に配置されていると考えられるところ、字図上においても枝番が付されて分筆される以前の各地番(特に控訴人所有土地の枝番は後記のとおり大谷川沿いの部分を分割したものである。)の配置は概ね三列に連つているとみられなくもない。そしてその中央列に連るのは被控訴人所有の土地七筆と控訴人所有の二七八二番、二七八三番、二七八四番と解されるので、控訴人所有の他の五筆の土地はその西側の列に属することになる。

本件係争地の地形をみるに東部境界線は尾根の稜線に当り、それは南部を除きほぼ直線に近いところ、字図上では被控訴人所有土地の東部境界線は入りこんでいるのに対し、控訴人所有土地の右境界線は現状の境界線のように直線に近いうえ、係争地南部の張り出し部分を対比してもその現状は字図上二七八二番、二七八三番、二七八四番の一団が張り出した形と極めて類似していることが認められるので、字図上の地形と本件係争地の形態を比較する限りにおいては両者はほぼ符合すると考えられる。

四  本件係争地と稜線を境にして接する東緩斜面の占有状況並びに控訴人、被控訴人の各所有土地の公簿面積と占有土地のそれとを対比して検討する。

1  右東緩斜面の占有状況を判断するに〈証拠省略〉によれば東緩斜面は北から南へ順に堀睦男が占有する二七七五番の一(原野二反九畝歩、二八七六平方米)渡辺市太郎が占有する二七七四番(原野八畝歩、七九三平方米)吉良歳之が占有する二七七三番の一(原野五畝歩、四九五平方米)同番の二(山林二反一五歩、二〇三三平方米)二七七一番(原野二反歩、一九八三平方米)二七七〇番(原野一反二畝歩、一一九〇平方米)熊谷次雄が占有する二七六九番の一(原野一反歩、九九一平方米)熊谷完が占有する二七六八番(畑三反七畝一九歩、三七二五平方米)佐田岩喜が占有する二七六九番の二(原野一反歩、九九一平方米)、菅皆夫が占有する二七六六番(原野三反歩、二九七五平方米)、熊谷貴が占有する二七六五番(原野二四七九平方米)があり、その占有関係は永年に亘りながら特別の紛争が生じた形跡もなく、その土地の配置も二七七五番の一を除けば字図上の三列の地番のうち東側一列のそれとほぼ符合すること(もつとも熊谷貴は後記認定のとおり誤つて他人の土地を占有していると推認される。)しかも二七六八番の南に位置する二七六七番、二七六二番、二七六三番、二七五九番、二七五八番、二七五五番、二七五三番は前記のとおり東緩斜面の東谷あいにあり、その東にある丘陵にはさまれた細長いすり鉢状の土地で一部を除きいずれも畑又は田として耕作され、その土地は周囲の地形からも明確に区画され容易に特定しうるので、それらが場所特定の基準となりうることが認められる。

以上のとおり東緩斜面の占有状況は一部を除きほぼ字図上の土地に符合して占有されているので前記三列中東列の土地が東緩斜面に存在するといえる。そこで、控訴人主張のとおり西緩斜面である本件係争地が控訴人所有の土地であるとすれば、中央列の被控訴人所有の土地は控訴人所有土地の東側に存在することが字図上明白でありながら現地においてはそれを支配すべき実地がないということになつて極めて不自然といわざるを得ない。

2  次に控訴人および被控訴人所有土地の面積とその占有土地とのそれを対比するに、前記認定の東緩斜面の占有関係において存在すると認められる前記一〇筆(二七六五番は除外する)の土地の公簿面積は合計一町八反二畝四歩となるが、二七七五番の一は控訴人の主張するとおり大谷川に面し、本件係争地の北側附近に位置することが窺われることは後記認定するところであるから、これを除くとなると前記東緩斜面の公簿面積は一町五反一畝四歩となる。これに対し被控訴人所有の七筆の土地の公簿面積は〈証拠省略〉によれば一町八反四畝一八歩であり、控訴人所有土地のうち字図上ほぼ被控訴人所有土地の西側に隣接するとみられる六筆(従つて出張り部分のうち二七八三番、二七八四番を除外する)の公簿面積は〈証拠省略〉によれば九反五畝であつて、これに各番の二(二七七八番については同番の三)の地積を加えてもこれらの各公簿上の面積は〈証拠省略〉によれば一〇歩から一畝未満であることが認められるから総合計一町歩に達しないこととなる。

〈証拠省略〉によれば本件係争地の東緩斜面と右西緩斜面(但し出張り部分を一応除く)西急斜面の各面積はほぼ似た程度であるが、西急斜面は地形上狭あいな峻崖と大谷川の敷地から成り、河川敷部分がかなり含まれているので実際上は西急斜面の面積は他の二斜面に比して狭いと推定される。そこで本件係争地が控訴人所有の土地であるとすれば、公簿上約五町に近い本件係争地一帯の約三分の二の部分が控訴人所有の前記土地と分筆した土地を加えた約一町歩の地番をもつて占められ、残りの約三分の一の部分に当る東緩斜面に控訴人所有土地と同斜面占有の前記土地を含む土地で、公簿面積約四町に近く、二〇筆に及ぶ地番がすべて押し込められることになるので、それは字図の土地配置状況からみても肯認し得ないものといわなければならない。

もつとも〈証拠省略〉によれば、東緩斜面に一部控訴人らの主張にそう地形があり、右斜面に被控訴人所有土地および前記右斜面占有の土地すべてが包含される旨の証言およびこれを裏付ける図面があるが、一部の地形によつて係争地全体を認定するのは相当でなく、右図面は控訴人の役場吏員である赤星昭生が独自の調査のもとに地形や土地占有から勘案斟酌して自己の見解で適宜前記地形図に地番を記入した結果得られたものであるから、右証言および図面をもつて直ちに控訴人ら主張事実を肯認する確証とするに足りない。

五  ところで控訴人および補助参加人は控訴人所有の土地のうち二七八二番、二七八三番、二七八四番を除き他の五筆は二七七五番の一とともに分筆される前の全体が明治初年国有原野に査定編入されたのち部落民に下戻され、野尻村有になつたもので、字図上大谷川の東岸に所在することが明らかで、右各土地が国有であつた当時部落民は牛馬飼養のため国に賃料を納めてこれを借用していた経緯があり、牛馬を飼養しうるのは断崖より上の西緩斜面に限られるから、かかる沿革に照らして控訴人所有土地は西緩斜面の本件係争地であると主張する。

1  そこで、右主張の控訴人所有土地の沿革およびその利用状況について判断する。

〈証拠省略〉によれば、次の事実が認められる。

(一)  控訴人所有土地(但し二七八二番、二七八三番、二七八四番を除く)は附近原野と共にもと国に帰属していたが明治三八年四月旧野尻村大字津留部落に下戻され、右野尻村に引渡されたが、固有地当時右原野は名義上甲斐縫太郎外一名の名義をもつて部落民に貸与されていたので、部落民は拝借料を支払つて右原野で牛馬飼料の上草刈り等して利用して来たこと、ところが部落民は下戻しを受けた土地(前記控訴人所有の原野を含む百数十筆の土地)の公平を管理をするため大正二年三月整理委員会を組織して、これを部落民に賃貸したり、上草を売却してその上草を刈らせていたこと、訴外亡橋本平次郎は大正三年頃から約六年間賃借したが、その際同人は熊本県と大分県の県界にある字大谷所在の二筆の原野を賃料を支払つて賃借し、他にその上草を刈らせていたこと、そして控訴人所有土地五筆は大正一二年一一月一五日旧野尻村に所有権が移転されたこと。

(二)  前記二七八二番、二七八三番、二七八四番はもと工藤一蔵の所有であつたが、補助参加人が官行造林にする際、右造林には火災の延焼を防止するため境界線沿いに植林をしない防火線の設置を必要とし、右三筆の土地が欠くべからざるものと判断されて、野尻村が工藤からその譲渡を受け、二七八二番につき大正一三年九月四日、二七八三番、二七八四番につき大正一四年一二月二八日その旨の登記手続を受けたこと。

(三)  ところが、工藤一蔵は当時大谷川東岸(大谷字側)に設置していた井ぜきおよび水路の管理上、代替地として東岸崖地の譲渡を希望したので、旧野尻村もその地が造林には不適なことからそれを承諾し、二七八二番の代替地として二七七五番、二七七六番、二七七七番、二七七八番、二七八〇番、二七八一番のうち各崖地部分をそれぞれ枝番の二(但し二七七八番については三として)と分筆して譲渡し、大正一三年九月四日工藤名義の所有権移転登記手続をしたこと、二七八三番、二七八四番の代替地としては野尻村所有の字津留産の谷二五二一番(原野七反一五歩)と同字池ノ久保二四七三番(原野二反歩)を譲渡して交換したこと。

(四)  旧野尻村は以上控訴人所有の前記五筆の土地のほか他の五〇筆の村有地につき補助参加人との間に大正一三年二月五日公有林野官行造林契約を締結し、補助参加入のため地上権を設定したので、補助参加人はその頃から右土地に植林を始めたが、その際補助参加人は事前に熊本公有林野官行造林署(熊本営林署の旧名称)高森担当区に勤務する岩村鹿子生をして現地調査をさせ、整理委員会委員、旧野尻村役場職員、隣接所有者らの立会を得て現地を測量し、官行造林地図を作成したこと、そして本件係争地を含む西緩斜面が控訴人所有の土地であるとして前記造林をしたこと。

(五)  ところが前記官行造林は一部変更され、大正一四年七月四日野尻村議会もそれを決議し、大正一五年三月一七日補助参加人との間に変更契約書を取り交わしたが、それは前記のとおり工藤一蔵から取得した土地を防火線として造林地に加えると共に二七七五番を造林地から除外するためになされたものであつたこと、以来補助参加人は本件係争地を造林地として管理占有し、右係争地を控訴人所有の八筆の土地として支配していること、それに対し後記のとおり一部の者からその境界について異議がとなえられたが概ね平穏に占有を続けていること、しかし官行造林前において係争地附近は行政区画上は津留部落に属しながらも津留部落民が利用することなく、橋本平次郎が前記のとおり県境にある土地を賃借したときも大分県人に転貸していたうえ、その附近は主として大分県人によつて利用占有されていたこと、その後旧野尻村は控訴人と合併し、控訴人が前記土地の所有権を有すること。

以上のとおり前記控訴人所有の五筆の土地は控訴人所有となり官行造林がされるまで実質は津留部落民に貸与され、牛馬飼料の上草刈りがされていたが、地形的にみても西急斜面は断崖でその利用目的に副わない場所であるから本件係争地が前記占有土地に当ると解される余地がないのではない。しかし、右附近の土地は前記津留部落民によつてあまり利用されず、却つて大分県人によつて利用されていた位で、津留部落が国から下戻された時もその土地の範囲も明確に確認されていないうえ、官行造林の際も大分県人によつて異議が述べられた事実も窺われるので、前記のとおり本件係争地が永年に亘り控訴人所有土地として利用されている事実があるとしても、前記認定の事実により直ちに右係争地が控訴人所有土地と断定することはできない。

もつとも、前記字図によれば、控訴人所有の二七七七番の一と二七七八番の一との間に水路があり、これは更に東方の被控訴人所有の二七七九番と二七八一番の一との境ともなつていて、右水路は右両地の間に前記控訴人所有の両地の境を流下するもののように表示されているので、控訴人らの主張を字図にあてはめると控訴人所有地の東側境界線が係争地の稜線となるので前記水路は現地において東緩斜面から稜線を越えて西緩斜面に流れることとなり、そのことから考えると控訴人ら主張が理由のないことが明白ともいつているが〈証拠省略〉によれば、前記場所には水路はなく、水路と表示されたと思料される場所には東緩斜面から稜線を超えて西緩斜面を通り大谷川を渡つて対岸へ通ずる道路が存在することが認められるので、前記字図の水路は事実に符合しないものというべきである。

2  次に本件係争地の北側の占有状況について判断するに〈証拠省略〉によれば、次の事実が認められる。

本件係争現地の北側は大分県に近接し、西は大谷川沿いに崖があり、大分県境附近は本件係争地と大分県原野にはさまれた谷状の土地でその中間を東西に県境が延びているところ本件係争現地の北側は訴外大塚悦男が植林して占有し、更に北の大分県側は大分県人の佐藤涼が占有していること、字図上本件係争地の北には二七七五番の一(これは前記のとおり二七七五番が大谷川沿いの二七七五番の二と分筆されたもの)が存在し、その土地は国有地であつたが、補助参加人が官行造林する際、造林地から除外されて大正一三年一〇月九日堀宗馬に譲渡されたが、同人はこれを大塚繁義に売却し(但し未登記)たものであることが認められるので大塚悦男が占有する土地は二七七五番の一と推認される。しかしながら堀宗馬は官行造林前から東緩斜面の北部をも占有していたことがあり同人の子堀陸男も現にその附近を占有し(但し同人の所有権は明らかでない)字図上二七七五番の一の東南にある二七七四番は渡辺真一の所有であるところ、同人は堀陸男が占有する南附近を所有地として占有し、先代渡辺市太郎は更にその北部県境附近を占有していた事実も認められるので二七七五番の一が前記のとおり本件係争地の北側にあると推認しえてもその範囲および隣接地との境界も明らかでないので本件係争地との境界が控訴人らの主張の線であると解することはできない。

3  本件係争地の南部の占有状況について判断するに、〈証拠省略〉によれば次の事実が認められる。

(一)  字図上控訴人所有地の南部分は二七八一番の一、二七八二番、二七八三番、二七八四番であつて、二七八四番の南東にあるのは二七六五番、南は二七八五番で、二七八六番は二七八五番の南にあつて二七八四番とは接していないこと。

(二)  二七六五番は熊谷太一郎所有であつたが、昭和二三年一二月二日自作農創設特別措置法により佐田今朝弘に売渡され(但し登記は昭和三五年八月一一日)更に昭和四〇年一一月四日(登記)佐田一成に贈与されていること、二七八五番は佐田吉三郎の所有であつたが、佐田今朝弘の妻マサカが相続取得していたところ、大正一四年七月一日(登記)野尻村へ譲渡し、その交換として野尻村所有の二七八七番の譲渡を受け、大正一三年一〇月二〇日佐田今朝弘名義の所有権移転登記をしたこと(但し現在は佐田マツエ所有)二七八六番も佐田吉三郎の所有であつたが、佐田マサカ、佐田今朝弘を経て昭和三九年三月一六日(登記)佐田一成の所有となつていること。

(三)  二七八五番は野尻村の所有となり補助参加人によつて造林が行われ、それは本件係争地の出張り部の西南部に当るとして占有されていること、その東南部は二七八六番、二七八五番の土地としていずれも本件係争地に接続して佐田一成が占有管理していたこと、二七八六番は一部字図上と異り二七八四番と接しているが、同附近の占有は字図上の地番と符合すること。

(四)  字図上二七八六番の南東にあるのは二七九四番の一、二であるが、現地においても二七八六番の南東の土地を佐田一成が二七九四番の一、二として占有し、同番の三は畑として同人が利用していること、それらの占有については特別の紛争も生じなかつたこと。

(五)  二七八三番は字図上も出張り部分の中央にあつて地目畑であること、本件係争地出張り部分の中央は低くなつた場所でその附近は嘗つて工藤一成が所有していた頃、佐藤静馬が畑地として耕作していたことがあり、同所には畑地と窺われる形跡が残つていること。

(六)  熊谷貴は前記出張り部分の北側を自己所有地の二七六五番であるというが、右土地は前記のとおり佐田一成の所有となり、その附近に熊谷貴所有の土地は他に存在しないので同人の占有はその裏付けがないこと。

以上認定の事実に出張り部分の字図上の地形と現況とを対比して考えると本件係争地出張り部分は控訴人および補助参加人の主張する二七八二番、二七八三番、二七八四番の土地に符合すると推認され、右係争地の南部附近は控訴人らの主張するとおりの土地として占有されていることが認められるので、同所附近の土地の存在は控訴人らの主張に副うものと解される余地がある。

六  以上認定の事実を総合判断すれば、本件係争地の北側附近に二七七五番の一の存在が窺われ、係争地南の出張り部分は二七八二番、二七八三番、二七八四番に該当すると推認されるのでその範囲においては控訴人らの主張も肯認しうる余地がないでもない。しかしながら前叙説示のとおり東緩斜面およびその周辺の地形、占有状況その他の諸事情からみれば、東緩斜面についての控訴人らの主張は現実と全く符合しないものというべきであるから、前記北部、南部についての判断も肯定し得ない結果とならざるを得ない。

そこで本件係争地が控訴人らの主張のとおり控訴人所有土地であると判断するのは相当でなく、他にそれを認めうるに足りる証拠もないので控訴人および補助参加人の右主張は失当といわねばならない。

そうであれば、本件係争地が被控訴人所有土地に該当すると推認されることにもなるが、その土地の範囲および境界は前記のとおり明確でなく、それを確認しうる証拠もないので、控訴人所有土地であることの確証がないことから直ちに右係争地を被控訴人所有土地と解するのも相当でない。

七  控訴人および補助参加人は仮に本件係争地がその主張のとおり控訴人所有土地に当らないとしても、右現地につき控訴人は補助参加人との間に官行造林契約に基づく地上権を設定しその設定日から一〇乃至二〇年に亘り所有の意思をもつて占有を継続し時効によつてその所有権を取得したと主張するので判断する。

控訴人は前叙説示のとおり本件係争地内にその所有にかかる前記二七七六番の一、二七七七番の一、二七七八番の一、二七八〇番の一、二七八一番の一の五筆の土地が含まれるとして補助参加人との間に大正一三年二月官行造林のための地上権設定契約を締結し、更に前記二七八二番、二七八三番、二七八四番の三筆の土地の所有権を取得するとこれも本件係争地内にあるものとして補助参加人との間に新たに大正一五年三月前記同様の地上権設定契約を締結したので、いずれもその時点から本件係争地を自己所有土地として所有の意思をもつて占有を開始し、以来その占有が平穏公然となされたことは前記認定のとおりであつて、前記事情のもとでは占有開始のとき控訴人が善意であつたと推認されるので一〇年を経過した昭和九年一月および昭和一一年二月には時効により本件係争地の所有権を取得したものといわねばならない。

仮に控訴人の前記占有が悪意でないし過失があるとしても二〇年の経過により昭和一九年一月および昭和二一年二月には控訴人は右所有権を取得したものというべきである。

八  ところで被控訴人がその所有土地七筆を主張どおりの経緯で取得しその旨の登記がなされていることは前記のとおりであるところ、本件係争地が被控訴人所有土地に該当するとすれば、二七七二番の一、二、三の各土地の登記名義人たる被控訴人(いずれも昭和三七年七月二六日登記)二七七七番の第一次買受人で登記名義人たる松岡孝一郎(昭和三四年七月七日登記)第二次買受人で登記名義人たる江藤辰己、荒木末人、坂口実義、田山三良(昭和三六年九月二九日登記)、第三次買受人で登記名義人たる被控訴人(昭和三九年二月七日登記)、二七七八番の第一次買受人で登記名義人たる松岡孝一郎(昭和三四年七月一六日登記)、第二次、第三次買受人は右と同じく、二七七九番、二七八一番の一の第一次買受人で登記名義人たる葉山明、奥村生雄、荒木末人、糸田繁、被控訴人(昭和三七年四月一六日登記)、葉山明持分についての第二次買受人中村ユリ子(同年八月一日登記)、糸田繁持分についての第二次買受人西田明(昭和三九年一月一七日登記)、葉山および糸田持分につき第三次買受人であり、奥村生雄荒木末人持分につき第二次買受人で各登記名義人たる被控訴人(葉山持分につき同年五月二一日他の持分につき昭和四一年一〇月二五日登記)はいずれも時効完成後の第三者に該当することとなるので最終名義人である被控訴人に対し控訴人は時効取得を主張しえないこととなる。

しかしながら前記認定のとおり本件係争地が控訴人の所有に属すると認定しえないことはいうまでもないとしても、右係争地が全部被控訴人主張の土地に該当すると認定することができないことも又前叙説示のとおりであるから、控訴人の本件係争地の時効取得は被控訴人の前記所有権移転登記手続が存在することをもつて妨げられるものではないといわねばならない。

仮に本件係争地が被控訴人主張の前記七筆の土地に該当するとしても同人は後記認定のとおり控訴人の登記の欠缺を主張しえない背信的悪意者又はその者からの転得者の地位にあると解されるので、控訴人は被控訴人に対し本件係争地の時効取得をもつてその所有権を主張しうるものと解するのが相当である。

〈証拠省略〉によれば、本件係争地に前記官行造林がされたとき、隣接所有者からその計画に対する強い反対がなかつたので、右計画は遂行されたが、一部隣接者で大分県人の中には不満を述べ、旧野尻村と交渉するものもあり、戦前にも一宮積、坂田新太郎、熊谷孫市、熊谷次雄らが所有地侵害として村当局に善処を求め、更に弁護士に依頼して訴訟を準備したこともあつたこと、戦後も数回同様の陳述を行つたが、昭和三三年七月それらの者や相続人が控訴人および補助参加人を相手に高森簡易裁判所に対し、本件係争地内に自己所有地があるとして所有権確認の調停申立をしたが意見が対立して不調に終つたこと、ところが昭和三四年頃から被控訴人主張の土地が前記認定の経緯により売買され、その旨の登記手続がされたこと、一宮積、坂田淳子は同人らが前記のとおりその所有土地につき控訴人らと紛争を生じていることを知つた江藤辰己から右一宮らに代わり所有土地の取戻しを図り、そのための訴訟を提起するが、それが成功した場合は一宮に金一〇〇万、坂田に金五〇万円を与える旨申出られ、同人らはこれを承諾したこと、二七七七番、二七七八番は前記のとおり松岡孝一郎に所有権移転登記がされていたが、それも江藤と同目的のためになされたものであることが推認され、各名義はいずれも松岡から江藤辰己外三名の共有名義に移転登記手続がなされ、二七七九番、二七八一番の一については前記二筆の土地の共有者の一人である荒木末人を含む葉山明外四名(被控訴人を含む)に移転登記され、その頃被控訴人ら買受人が本件係争地内の土地所有権を主張し出したので、昭和三八年一〇月三日控訴人は二七七七番、二七七八番の第二次買受人である江藤辰己、荒木末人、坂口実義、田山三良、二七七九番、二七八一番の二の第一次買受人である葉山明、奥村生雄、荒木末人、糸田繁、被控訴人および熊谷次雄を相手方として、熊本地方裁判所に対し本件訴訟を提起したが、その後にあつて被控訴人は同人所有土地の全権利を取得したとして前記のとおりの登記手続をしたが、その頃一宮積も江藤辰己との前記約定は被控訴人が責任を負うに至つたと知らされ、被控訴人も直接の売渡人でない一宮に対し同旨のことを述べていること、しかし一宮、坂田は前記売買の代金を全く受領していないので、その他の売買についても前記事情から正当な代金授受がされていないと推認されること、共有名義人のうち江藤、荒木、葉山、奥村、荒木、糸田、中村、西田、被控訴人らはいずれも取得当時熊本市内に居住し、坂口、田山は熊本県鹿本郡植木町に居住して、本件係争地と遠隔の地にあり、荒木は飲食店および集金人、葉山は洋服店、糸田は司法書士、奥村は農業、田山は不動産業、被控訴人は不動産業を営んでいたので本件係争地の取得を必要とする事情にもないところから共有名義人として本件係争地を取得した者は買受けの際、右係争地売買の事情を熟知していたこと、被控訴人所有土地について第一次乃至第三次買受人がそれを取得した頃は官行造林が開始されて三〇年以上を経過し、その立木も樹令三〇年以上の立派な樹木に成育し、それらは被控訴人によつて長期間に亘り官行造林として管理占有されていたことは明白であることが認められるので、以上の事実を総合判断すれば前記各買受人らはその取得土地が官行造林地であることを熟知のうえ買受け、しかもその土地所有権をめぐり紛争が生じ、その内容についても認識しながら紛争に介入し、多額の利得を挙げようと企ててこれを買受け名義に登記手続したものと解され、当審における被控訴人の本人尋問の結果中、右認定に反する部分は信用できない。

そこで被控訴人は二七七二番の一、二、三につき第一次買受人として、二七七七番、二七七八番につき第三次買受人であるから悪意取得者の承継人として、二七七九番、二七八一番の一につき第一次(共有)および第二次および第三次(全共有)買受人として登記しているので同人は第一次悪意取得者および悪意取得者の承継人というべく、いずれも控訴人の前記登記の欠缺を主張し得ない背信的悪意者といわねばならない。

九  以上のとおりであるから控訴人の本訴請求は正当として認容すべきところ、これと趣旨を異にする原判決は失当であるからこれを取消し、訴訟費用の負担については民事訴訟法第九六条、第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 亀川清 美山和義 松尾俊一)

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